エドマンド・ボイル (第8代コーク伯爵)
第8代コーク伯爵および第8代オーラリー伯爵エドマンド・ボイル(英語: General Edmund Boyle, 8th Earl of Cork and 8th Earl of Orrery KP、1767年10月21日 – 1856年6月29日)は、アイルランド王国 (1800年以降は連合王国) の軍人で、貴族。1768年から1798年迄は儀礼称号としてダンガーヴァン子爵を使用していた。
経歴
[編集]エドマンドは、第7代コーク伯爵エドマンド・ボイルとその最初の妻アン (ケランド・コートネイ(Kelland Courtenay)の娘) の次男として生まれた[1] 。
1785年4月16日に第22歩兵連隊 (英語版) の少尉に任命され[2]、1785年12月10日には第100歩兵連隊 (英語版) 中尉に昇進した[3]。1787年5月27日、民兵のサマセットシャー連隊の中尉に任命され[4]、1789年4月22日、大尉に昇進した[5]。1791年1月27日、第34歩兵連隊 (英語版) の大尉から独立した部隊の大尉へ昇進し[6]、そのすぐ後に第14歩兵連隊 (英語版) に移った。1794年4月5日、できたばかりの第87歩兵連隊 (英語版) の少佐に昇進し[7]、同年7月19日には連隊の中佐に任命された[8]。1795年1月20日、第11歩兵連隊 (英語版) に異動した[9]。1796年5月21日、エドマンドはコールドストリームガーズの中隊長となり[10]、1798年1月9日にはジョージ3世の副官(Aide-de-camp (英語版))に任命された[11]。
1803年7月、エドマンドは第4歩兵連隊の半給から、歩兵の予備大隊である第16ギャリソン大隊の大佐になった[12]。1825年5月27日、エドマンドは大将となった[13]。1835年7月22日には、聖パトリック勲章を叙勲した[14]。
私生活
[編集]エドマンドは1795年10月9日に、彼の最初のいとこであるイザベラ・ヘンリエッタ・ポインツ (-1843年11月29日) と結婚した。イザベラはウィリアム・ポインツ (1734年-1809年) とその妻イザベラ (ケランド・コートネイの娘、エドマンドの母アンの姉妹) の娘だった。(エドマンドの弟コートネイ卿は1799年にイザベラ・ヘンリエッタの妹、カロライナ・アメリアと結婚した。姉妹の兄はウィリアム・ステファン・ポインツ (英語版) である。) エドマンドとイザベラは9人の子をもうけた[1][15]。
- イザベラ・エリザベス・ボイル (1797年2月4日-1829年12月27日)
- エドマンド・ウィリアム・ボイル (1798年4月2日-1826年1月1日)
- ジョージ・リチャード・ボイル (1799年9月22日-1810年9月8日)
- チャールズ・ボイル (1800年12月6日-1834年8月25日) - 1828年3月18日、第2代ハウス伯爵ウィリアム・セント・ローレンス (英語版) の娘キャサリン・セント・ローレンスと結婚し、(後に第9代伯となる) リチャードをもうけた。
- ジョン・ボイル (1803年3月13日-1874年12月6日) - 1835年12月10日にヘンリー・フィッツジェラルド (英語版) の娘セシリア・ド・ルースと結婚し、子をもうけた。
- ルーシー・ジョージナ・ボイル (1804年3月19日-1827年8月31日)
- ルイーザ・ボイル (1806年9月16日-1826年3月30日)
- ロバート・エドワード・ボイル (英語版) (1809年3月-1854年9月3日)
- リチャード・キャベンディッシュ・ボイル (1812年2月28日-1886年3月30日) - アレキサンダー・ゴードン (英語版) の娘エリナー・ヴィア・ゴードン (英語版) と結婚し子をもうけた。チャプレンであった。
エドモンドは1856年6月29日に亡くなり、孫のリチャードが跡を継いだ。
1857年、彼の末子であるマーストンのチャプレン、リチャードは、生家の敷地の南東の境界沿いに、「貧しい人々の利益のために、そして父を記念して」として、学校を作った[16]。
慈善事業
[編集]エドマンドはサマセットのマーストン・ビゴット・パーク (英語版) の敷地内にあるマーストン・ハウスに住んでいた。1817年に造園家のジェフリー・ワイアットヴィル (英語版) を雇い、中央の区画をイオニア式の円柱で飾った。ジェフリーはロングリートでの業績でその地域では有名で、その後フルーム (英語版) の聖ヨハネ洗礼者教会 (英語版) でも業績を遺した。
1821年、当時のヒル・ストリートとフルームのマーケット・プレイスの角で、エドマンドはトーマス・ブーン (英語版) (フルームの慈善活動家) から、テント市場の上に古典主義建築 (グリーク・リヴァイヴァル) による集会場を作るように説得された。1822年、その通りはコーク・ストリートと名付けられた[17]。エドマンドはブーンから近代的な市場にふさわしいデザインとしてフォロ・ロマーノの画像を見せられていた。彼は難色を示し、経済的なことを考えるとそれは無駄だ、と言った。しかしブーンの説得は奏功した。それはフルームで有名な建物の一つとして残っており、現在は1階が閉鎖された銀行である[18]:114。彼らは様々なプロジェクトに共に取り組み、その中の一つに、エドモンドが理事長を務めたクライスト・チャーチ・ナショナル・スクールがあった[18]:94-101。エドマンドは貧しい人々の救済のために、ブランケット・ファンドやコール・ファンドなどの地元の慈善団体に寄付をし、またフルーム貯蓄銀行の頭取を務めた[18]:122-137。ブーンは彼をフルームの住人の親切な友人として高く評価した[要出典]。
脚注
[編集]- ^ a b Bernard Burke.Burke's Genealogical and Heraldic History of Peerage, Baronetage and Knightage. London:Harrison & Sons. pp. 502–503. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット(イギリス政府官報). No.12638 1785年4月12日号 p.182. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.12706 1785年12月6日号 p.561.2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.12949 1787年12月22日号 p.602. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.13114 1789年7月14日号 p.493. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.13278 1791年1月29日号 p.63. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.13637 1794年4月1日号 p.288. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.13686 1794年7月19日号 p.748. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.13745 1795年1月20日号 p.72. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.13894 1796年5月21日号 p.493 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.14080 1798年1月6日号 p.23. 2020年8月26日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.15602 1803年7月16日号 p.873. 2020年8月27日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.18141 1825年5月28日号 p.924. 2020年8月27日閲覧
- ^ ロンドン・ガゼット. No.19291 1835年7月24日号 p.1421. 2020年8月27日閲覧
- ^ Lodge, Edmund (1877). The Peerage and Baronetage of the British Empire as at Present Existing Hurst and Blackett, Publishers. p. 148. "Lady Emily Harriet Catherine b. 1854". 2020年8月27日閲覧
- ^ ヒストリック・イングランド (1984年11月27日). [https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1174777 "Details from listed building database (1174777)". en:National Heritage List for England. 2020年8月29日閲覧
- ^ McGarvie, Michael (2017). "Frome Street and Place-Names". Frome: Frome Society for Local Study. p. 11. ISBN 978-0-9930605-4-0.
- ^ a b c Gill, Derek J, ed. (2003). "Experiences of a 19th Century Gentleman: The diary of Thomas Bunn of Frome". Frome: Frome Society for Local Study.
アイルランドの爵位 | ||
---|---|---|
先代 エドマンド・ボイル |
コーク伯爵 1798年 – 1856年 |
次代 リチャード・ボイル |
オーラリー伯爵 1798年 – 1856年 |